寺スが綴るコラム

日本人の風景

「脇元の思い出 その1」日本人の風景#4

私達のビジョンが"さとやま遊人郷"にいたるまでの経緯を何回かに分けてお話したいと思います。

それには前回ちらりと話題に出た脇元幸一君(以下、脇元と呼びます)のことに触れておかねばなりません。そこでここしばらくは、何回かに分けて、彼との思い出や彼と一緒に見た風景をたどってみたいと思います。

脇元とは鹿児島の同じ高校で同級生でした。どちらかというと夜行性の私達二人は、昼間学校で顔を合わすことはほとんどなく、夜になると脇元の下宿で品質のよろしくない仲間たちと集合して酒盛りに興じたものです。

-23-さとやま遊人郷-「夢を追いかけろ」-YouTube.pngこの品質のよろしくない仲間の中には、現在一緒にさとやま遊人郷の夢を追いかけている園田定彦君(現:医療法人友愛会理事長)もいたのですが、彼との山のようにあるエピソードについてはまたどこかの機会で触れることにします。


卒業以来、脇元と再会したのは38歳の時。20年ぶりの再会の場ですぐに私達は意気投合しました。それから東京で頻繁に会うようになるのですが、ある時彼から「いずれ故郷鹿児島に戻り整形外科のクリニックを開設したいので経営を手伝って欲しい」と依頼され、深く考えることもなく「君となら喜んで!」と応えたのが彼との冒険の始まりです。その後脇元の甥っ子脇元順一氏(現:医療法人SEISEN理事長)と理学療法士渡邉純氏らが合流し、静岡県駿東郡の清泉クリニック整形外科を設立、その後鹿児島市、東京都(2サイト)、福岡市と清泉クリニック整形外科の快進撃が始まりました。

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静岡で第一号クリニックを開設した直後、脇元とクリニックに患者として訪れた沼津のお寺宝珠院管長とのご縁が生まれ、このご縁は私へと繋がります。私が最初に宝珠院管長から聞かされた話はとても印象深いものでした。管長は幼い頃に大変な苦労を重ねられたそうで、その頃の自分の憧憬を振り返りながら、これからの幼児教育の大切さを滾々とお話になられました。特に、親のいない孤児たちへの教育については、単に家庭に住まわせ教育するだけでは不十分であり、その後の子供たちの生きていける場を与えるためには職業訓練が重要であるとまで言及されました。そんな話に耳を傾けているうちに、いつの日にか宝珠院と協力して、医療・介護、健康とヘルスケア、幼児教育、そして仏教ならではの心の教えを一体化したコミュニティーをつくりたいと考えるようになりました。

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今思えば、"さとやま遊人郷"の原点は、この3人の出会いから生まれたものです。

さとやま遊人郷プロジェクト代表 米山兼二郎