寺スが綴るコラム

日本人の風景

「函館生まれの恩師」日本人の風景#8


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ここ2年、コロナを理由に断ってきた函館競馬観戦ツアーに今年は久しぶりに参加することにした。このツアーは、サトヤマ寺スのサポーターでもあられる道永幸治先生が毎年企画しているものである。もちろん競馬が目的であるが、それ以上に7月というのに過ごしやすい函館の気候、スルメイカをはじめとする海の幸、これらも毎年訪れたくなる魅力の一つである。

函館ツアー参加を決めた直後に、長年にわたるマレーシアの大学での勤務を終えて帰国された川村軍蔵先生のご自宅を尋ねた。話の中で、偶然にも先生ご夫妻が同じ日の、しかも同じ便で故郷である函館にお墓参りに帰られると知り驚いた。そして函館ツアー当日、私と川村先生ご夫妻は羽田空港で合流し、ほんの少しだけ話をして搭乗したあと、函館空港に着くとそのまま別れた。

Hachiman-Zaka_Slope-1.jpg川村先生は私の大学時代の恩師である。先生と出会うまで漫然と生きていた私は、先生のご指導の下、水産学博士にまで育ててもらった。その勢いで人生という大海原をここまで泳いでこれた。生まれてこのかた岐路がいくつかあったが、先生こそが最も人生に影響を与えてくれた大恩人であり、先生の弟子である事を水産業界を離れた今でも誇りに思っている。そんな事もあって、今年は競馬観戦が終わってから一人でゆっくりと、先生の生まれ育った場所辺りを周ってみたいと企んでいた。

Mt_Hakodate_&_The_Hakodate_port-1.jpg競馬観戦の翌日、レンタカーを借りて向かったのは先生が学生時代を送った北海道大学水産学部キャンパス。鹿児島大学水産学部出身の私にとって北大水産学部こそが本家本元、憧れの場所である。北大といえばクラーク博士で有名な札幌を連想するかもしれないが、水産学部だけは函館にキャンパスがある(函館水産専門学校が前身)。以前先生は、このキャンパスのすぐ裏で生まれ育ったがために、進路に悩む事もなく、北大水産学部に入ることが自然の成り行きだったと語っておられた。おまけに先生のお父様は函館最後の船大工であられた。七重浜を目の前に、海に根付いた暮らしは先生の原風景であったろう。そういえば学生時代、私はよく先生と一緒にフィールド実験やサンプル採取のために漁村を回ったものだが、その時の先生の横顔はいつも生きいきとしておられた。海を目の前に仕事ができている事に喜びを見出しておられる先生の姿は、当時の私には羨ましく、引け目さえ感じていた。なぜなら、私は大学に入るまでは海とは無縁の里山育ちだったし、それどころか、全く泳げない私にとって海イコール底なしの暗黒としか思えなかったからだ。

22118524_s.jpg先生との出会いで私は海をあまり畏れなくなった。そして研究、論文執筆、学会発表といった一連の作業に没頭した。気がつけば先生のお陰で、日本初の飛び級や最年少客員教授就任の名誉を授かった。一方で、私は先生に負けないほど没頭できる世界をさがしていた。研究職を通じて海に馴染みつつあるものの、心底喜びに満たされてはいない事に気がついていた。海では先生を超えられない。私が一生没頭できる喜びの景色は、どうやら別の場所のようであった。私が博士号取得と同時に海と関係のない民間企業に就職する時、あるいはベンチャー企業を興す時、先生は一言も私が海を離れる事を非難しなかった。お酒を飲んで酔っ払った時だったと思うが、「川村研究室は海に漂う流木であって、ここで時を過ごしたら次の場所に飛んでいけばいい」と言ってくれた。それどころか最初にベンチャー企業を立ち上げた時は、"はなむけ"だとご自身の開発したノウハウを特許化して私に持たせてくださった。

経営者になったばかりの頃、マスコミをはじめ色々な人からどこで経営を学んだか尋ねられた。その度に、「得たい姿をイメージして、具現化するための仮説を立てて、実験して、失敗と成功を繰り返して、仮説を実証あるいは潔く否定して、イメージを形式化する。この一連の作業が科学的経営である。」と答えたものだ。もちろん川村軍蔵先生から教わった事である。

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北大水産学部を後にして、先生の奥様が一番好きだとおっしゃていた「トラピスト修道院」、以前ゆっくり周れなかった「大沼公園」などを散策し、癒やされた気分のまま函館空港へと帰りの途についた。函館空港では、これもまたまたの偶然!東京から函館に出張で来ていた高校時代の友、池上淳君と一緒になった。偶然を喜びながらビールで酔っ払った。

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さとやま遊人郷プロジェクト代表 米山兼二郎