寺スが綴るコラム

日本人の風景

「キャンプのこと その1」日本人の風景#7

小学校の夏休み、父に2回キャンプに連れていってもらった。
1回目が2年生の時の屋久島の砂浜、2回目が4年生の時の鹿児島県伊佐市大口にあるキャンプ場だった。飯盒(はんごう)の蓋の隙間から吹き出る湯気に歓声を上げたり、小さなテントの中で生まれて始めて寝袋に入ったりと、新鮮な瞬間の連続だった。屋久島の砂浜では陸ヤドカリを捕まえ、大口の森ではミヤマクワガタを捕まえた。いずれも私の住む街では手に入らない生き物だったので、胸を躍らせ持ち帰り大切に飼育し、その興奮は夏休みの絵日記に記録された。

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中学、高校になると教育の一環としてキャンプに連れて行かれたが、こちらのキャンプには楽しい思い出がない。中学、高校ともに運悪く小雨の降る中、火がつきにくい薪を焚べるのに苦労し泣きたかった。友愛を謳歌せよ!とばかりに、先生たちがお膳立てしたフォークダンスやキャンプファイヤーは、集団行動の訓練にしか思えず、腹立たしく、早く帰りたい気持ちで一杯だった。

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浪人時代、友人の園田定彦(現:医療法人友愛会理事長)に誘われて、再び屋久島のキャンプに出かけた。この時のキャンプでは、園田君と縁を切るほどの大事件が勃発したが、それについてはあらためて書きたい。結局今でも彼との縁は続き、それどころか一緒に「さとやま遊人郷」の夢を追いかけているのだからメデタシメデタシである。大学に入った頃にも当時のサークルの仲間と屋久島でキャンプをしており、この時もちょっとした事件に巻き込まれたが、こちらも今となっては阿呆くさく楽しい思い出である。いずれの屋久島キャンプも世界遺産に登録される前の時代であり、そびえ立つ山々と深蒼の海といった自然以外、観光スポットはもとより商店街や食堂などほとんど存在しなかった。移動はもっぱら便数の少ないバスに頼り、舗装がされていない道路には砂埃が立ち込めていた。不便さが日常生活からの隔離をもたらし、同時に冒険心を呼び起こす。男性ホルモンびんびんの青年であればなおさらのこと、普段考えもしない大胆不敵な行動だってできそうな気になる。そんな気持ちなのは、一緒に居る仲間たちも同じだったようで、色々な事件が起こったのも、そんな屋久島の空気が原因だったのかもしれない。と、ここまで書けば何が起こったのか早く白状しろと言いたくなるかもしれないが我慢して欲しい。いつか書くかもしれないし、書かないかもしれない。いずれにしても今の私には単なる思い出に過ぎず、材料としてはつまらない。

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以来、ここ40年近く、キャンプから完全に遠ざかっていた。自然の中でのリフレッシュは温泉付き旅館で完璧に果たされるし、脱日常と冒険は行ったことのない海外でレンタカーを借りて走り回れば実現される。何よりも人生の相棒である妻とも一緒に楽しめる。お金はそれなりにかかるものの、その額相応の感動を得られることもこの歳になって知ってしまった。「今さらキャンプなど!」と軽蔑していた。ところが最近になって、「キャンプ」という亡霊が突然目の前に現れた。それどころか、不覚にもキャンプに飼いならされつつある。これから数回に分けて、キャンプとそれを取り巻く人間模様を描写してみたいと思う。なぜそのような気持ちに至ったかというと、まず第一に、未だにキャンプを心底楽しんでいるわけではない(ような気がする)。何回やっても、私のせいではなく、キャンプという製品の品質自体が陳腐で楽しむに値しない(ような気がする)。結局のところ、所詮私の性格には合わないのかもしれない(ような気がする)。
しかし、それにもかかわらず、誰彼に促されるままにキャンプ場にいそいそと出かけていくのはなぜだろう?この主体性のない行動が、還暦目前の年齢になって喚起されたのはなぜだろう?行きたくない行きたくないと思いながら、気がつくとアマゾンでテントを購入してしまっていたのはなぜだろう?私自身、これらの謎を解き明かしてみたいからだ。願わくばいつの日か心底キャンプを楽しみたい。そのためにも私の心の中の葛藤を解き明かし、心から納得してキャンプに行きたいのである。

さとやま遊人郷プロジェクト代表 米山兼二郎